デバイスアート・シンポジウムに行ってきた
5月13日に早稲田大学で開かれていた「デバイスアート・シンポジウム」に行ってまいりました。
正確に言うと、別の用事があって、たまたま通りかかったら開催されていたので、ラッキーでした。
自分の研究分野で有名な岩田先生と稲見先生、また、そんな研究者と一緒にお仕事をしていらっしゃる八谷さん、立ち振る舞いからして”見世物的な”明和電機の土佐さん、UCLAのErkki Huhtamo氏、コーディネータの草間先生のお話を聞いてきました。
いくつか印象的だったトピックについて、メモを起こし、まとめます。
とても刺激的な2時間半でした!
アートはOpen-endedな問いであるべき
「アートは何かと問われたらOpen-endedと答えます」とHuhtamo氏。
見る者に解釈を委ねる、答えを提示しない問いであることがアートであるそうです。
そして、アートは、その意味でオープンなコミュニケーションであるそうです。
ああなるほどなあと思いました。
科学技術はそうはいかないですね。科研費撮るためには「使い方はそちらで考えて」なんて報告書書けないし。
このシンポジウムでも幾度も工学研究がアートではいけない原因としてお金の問題が取り上げられていました。
分野・スタイル(物事の進め方)の違いかもしれません。
日本と海外でのアートの捉え方の違い。
日本ではアートと大道芸的なもの、道具や工芸作品は、ひとくくりに芸術作品であると受け止められやすい。
しかし、海外では明確な線引きがあるという。
だからデバイスアートは日本ではすんなり受け入れられても、海外では共存することではないと受け止められることもあるらしい。
遊び心は日本では粋と捉えられ、好意的に受け止められるが、西洋美術史においてはそうではないことが原因。
ただし、今の若い人はその線を越えて、道具や技術を美術の領域に取り入れることを好意的に受け止めているらしい。
逆に、日本では「アート=見世物」なところがある。別に悪いことではないが、そのことに自覚的であるべきらしい。
考えたことがなかったので、ふうむふむと思いました。
Crazyであれ
シンポジウムを通して「ナンセンス・デバイスはよい」という空気でした。
もやもやしたものを物にぶつける、とにかく作ってみてはじめて自分のやりたいことが分かる。
初めから何がやりたいのかわかっていたらCrazyにはならないということでした。
工学とアートの違い
「美術史の上にのせて作ったものがアート」だそうです。
無自覚に作ったものはアートではない。
研究史というか先行研究を調べないで研究をしている人がいないのと同じことですね。
物には魂がある
作品には「排泄物」である場合と「可愛がる対象」である場合があるそうです。
可愛がる対象として作品を作る場合、子供のように可愛い。
ものに魂が宿ったかのような気分になるから、顔がついていることが多くなると土佐さんがお話しされていました。
なるほどなるほど。
個人的に、行って一番よかったと思ったのはこのポイントでした。
まさにいま研究にせんとす!と思っている事柄なので。